被爆79周年原水爆禁止世界大会 福島・広島・長崎大会に参加

 被爆79周年原水爆禁止世界大会が7月28日に福島、8月4日~6日に広島、8月7日~9日に長崎で開催され、都本部から福島に6人、広島に105人、長崎に21人が参加しました。原水爆禁止世界大会は「核と人類は共存できない」ことを基本理念として毎年開催されており、反核・非核で一致するすべての人々に開かれる大会です。

福島大会(7月28日)

 福島大会では、染 裕之実行委員会共同実行委員長から「原発回帰に対してしっかりと意見を述べていくことが重要であり、全国各地の仲間との連帯を強め、反原発運動を進めていこう」との主催者挨拶がありました。挨拶の後、環境エネルギー政策研究所の飯田 哲也所長から「文明史的エネルギー大転換と日本の未来を福島から見通す」という基調講演が行われ、危険な原子力発電に頼るのではなく再生可能なエネルギーを優先させる政策への転換が重要であると述べられました。その後、原子力資料情報室の松久保 肇事務局長らの報告や現地実行委員会の菅野 賢一氏からアピール採択があり大会は終了しました。

福島大会の様子

広島大会(8月4日~6日)

 広島大会では、初日に開会総会会場のグリーンアリーナまで参加者全員で核兵器の廃絶と平和の重要性を訴える「折鶴平和行進」を行いました。開会総会では、参加者全員で原爆被害者への黙祷を捧げた後、金子 哲夫大会共同実行委員長から「広島の被爆者から学んだ『広島の心』とは、核兵器使用につながるすべての戦争に反対するということであり、核兵器使用の危険を取り除くには、全ての軍事行動を停止させることが必要」との主催者挨拶がありました。その後、日本被団協の田中 聰司代表理事から被爆証言があり、核兵器廃絶と平和の実現について訴えかけられました。証言の後、高校生平和大使や海外ゲストのスピーチ等があり、最後に秋津 忠利現地実行委員会委員長より挨拶があり、開会総会は終了しました。

 2日目(5日)は、核軍縮や脱原発等をテーマに6つの分科会が開催され、参加者は討論を交わし、大久野島のフィールドワークやワークショップで反戦・原水禁運動への理解を深め、最終日には、平和記念公園において広島市主催の平和記念式典が行われ、原爆が投下された8時15分に黙祷を行いました。その後、松井 一實広島市長から核兵器根絶への想いを込めた平和宣言が掲げられました。式典後、県民文化センターにて開催されたまとめ集会に参加し、3日間の大会の総括が行われ、最後にヒロシマ・アピールを採択し、閉会しました。

広島大会 折り鶴平和行進の様子

長崎大会(8月7日~9日)

 長崎大会では、初日に「開会行事」がブリックホールで開かれ、主催者を代表し川野 浩一共同実行委員長より「日本こそが核廃絶の最先頭に立つべきであり、そのために政治を変えるようにがんばろう」との挨拶がありました。その後、池田 章子長崎市議会議員から「被爆体験者」訴訟について報告があり、続けて、高校生平和大使・高校生1万人署名活動のメンバーが登壇し、8月下旬にジュネーブ派遣が予定されている高校生平和大使一人ひとりがそれぞれ決意表明を行いました。

 2日目(8日)は、6つの分科会、8つのひろば・フィールドワークに分かれ、被爆の実相に触れるとともに、核廃絶、脱原発の現状や課題について学習を行いました。最終日には「閉会総会」が長崎県立総合体育館で開催され、米村 豊現地実行委員長からの主催者挨拶の後、谷 雅志事務局長が3日間にわたる長崎大会全体についての総括を行いました。その後、高校生平和大使と高校生1万人署名活動のメンバーが登壇し、予定されている国連本部への派遣にむけての思いを述べ、「大会アピール」を全体で確認して長崎大会は終了しました。

長崎大会の様子

 本年1月、最大震度7であった能登半島地震が発生し多くの建物が倒壊する等甚大な被害が発生しました。志賀原子力発電所においては変圧器等が壊れ一部復旧の目途が立たなくなるという事態になり、その後もトラブルが相次ぎました。日本は地震が多発する国であり原子力発電事故が発生した場合、大きな被害をもたらしかねません。それにも関わらず、岸田政権は、原子力発電の新規建設等を認める原発回帰政策を進めており、到底容認する事は出来ません。

 また、日本は唯一の戦争被爆国であり、政府は核兵器廃絶を訴える立場にあるにも関わらず核兵器禁止条約に署名すらしていません。更に、政府は安全保障について米国の「核の傘」に依存しており、そのことは、間接的に核の存在を容認していることに繋がります。核兵器は決して「抑止力」とはならず、平和への脅威となります。都本部は、一日でも早く核なき平和な世界を実現すべく、今後も原水禁運動に積極的に連帯していきます。